まいにち、まちこち

〜メキシコシティ便り

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスという女性

暇だったので、メキシコの紙幣をぢっと見ていたら、唯一、200ペソ紙幣に女性が描かれていて、とても気になりました。

美しさの中に、知性を感じさせる眼差しがすごく魅力的です。

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肖像画の下の方に”JUANA DE ASBAJE"とあり、これを元に検索してみたところ、ソル・フアナと呼ばれている女性だとわかりました。

彼女は17世紀後半のメキシコの詩人であり、詩が最高の文学であった時代に、世界で最も広く愛された作家だそう。

そもそも平民生まれであった彼女は、文学の道を志すためにあえて戦略的に修道女になるという道を選んだのであって、その作風はまったく世俗的なテーマ(恋愛や抑圧的な社会への抗議など)でした。

 

以下簡単に、フアナの生涯を。(参考:旦敬介 訳『知への讃歌修道女フアナの手紙』)

フアナの父親はスペイン人でしたが、母イサベルと正式に結婚はしておらず、実父をほとんど知ることなく育ったとされています。

その分、母親が自ら農園の経営を行いながら女手ひとつで子供を育て、このことが後のフアナの自立した女性観へと繋がっていきました。

フアナが10歳の頃に、メキシコ市内に住む比較的裕福な伯母の家に預けられたことが縁で、副王宮廷の侍女に採用され、副王妃の手伝いや話し相手をすることになります。

これによりフアナの暮らしは一変し、各知識人との交流が生まれ、17歳には様々な学問分野の博士四十名を前にして口頭試問を受け、見事すべての難問に答えたというエピソードも残っています。

当時、副王はスペインから赴任してくることになっており、その任期は3年程度が一般的であったため、遅かれ早かれフアナが仕えていたマンセーラ侯爵夫妻も本国へ帰国することがわかっていました。

そうすると何の後ろ盾もないフアナは宮廷から放り出されることが目に見えており、後にはどのように生きようか決断が迫られます。

「結婚というものに対して抱いていた全面的な拒絶」を感じていたこともあって、修道院に入れば、結婚に伴う様々な不快事を避けつつ、あとは勉強なり詩作なりに打ち込むことができる、と考え、フアナは修道女になる道を選びました。

とはいえ、修道女になるにも狭き門であり、相当の持参金(3000ペソ。今でいう数千万円?)が必要だったそうです。これは地元の軍人がぽんと出してくれた…そうでありますが、彼女が自分の才覚で勝ち取ったとはいえ、一体どんな手だったのか。。

その後、順調に作家としてのキャリアを積み、フアナが30歳になる前、新副王の歓迎式典で設置される凱旋門のデザインを委嘱されるという異例の大抜擢がありました。

結果は上々で、この成果により、新副王妃のラグーナ侯爵夫人の寵愛を受けることとなり、絶対的なパトロンを得ることに成功します。

こうしてフアナは時代と身分の拘束をものともせず、恋愛を主題にした世俗的な詩や戯曲の創作に打ち込むことができるようになりました。

 

フアナの強さを感じさせる一節をご紹介します。

これは先ほどの200ペソ紙幣にも引用されており、メキシコ人で知らない人はいないほど有名だとのこと。

”頑迷なる男たちよ、

故もなく女を非難するのは、

自らが原因であることを見ぬがゆえ”

 

最期は、ペストに罹患した同僚修道女の介護中に自らも感染して43歳の若さで亡くなったとのこと。

 

時代や世間の風潮をものともせず、自らの才を惜しみなく発揮して正直に自らのやりたいことを貫いた、強く聡明な女性が存在することに、エネルギーをもらいました。